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安保法案に賛成する著名人もいるはず [固い話題]

安保法案に賛成する著名人が表立たないのはなぜか。

マスコミ報道では反対のデモ、反対の著名人ばかりを
テレビ画面に出し、情報操作を図っているとしか思えません。

そこで私も一国民としてこのたびの安保法案には一言述べておきたいと思います。

今回の安保法案、
1から10まで内容を事細かく知っている必要はありません。

簡単に言えば

同盟国が襲われたら助けますよ。
同盟国の後方支援をしますよ。

ということです。

なぜ助けなればならないのか、
なぜわざわざ戦争に巻き込まれるようなことをするのか、

というのが反対派の主たる主張です。

確かに今の日本って平和ですよね。

だから今のままでいいじゃないか、
憲法9条こそがこの平和を維持しているんだ、
という理屈です。

しかし、今の日本が平和なのは9条のおかげではない。
アメリカの抑止力のおかげです。

中国などは日本を乗っ取りたいと本心では思っていますが
アメリカが怖いから襲ってこないだけです。

そもそも9条の存在そのものも戦争に負けた日本が
アメリカに二度と刃向わないよう強制させられたものです。

それを有難く9条が平和を維持しているかのように語る
文化人や著名人などは明らかに誤謬だと言えます。

戦後からもう70年の年月が流れ国際情勢も変化しています。

冷戦構造が崩れ、日本にとって切実な問題である中国の領土拡張主義、
イスラム国などのテロリズムが世界に暗い影を落としています。

そんな中、一国だけが自己中な、憲法を盾にし、
平和だ戦争反対だと空言ばかり並べられる状況ではなくなってきているのです。

安倍さんは戦争をしようとしているのではない、
むしろ逆で世界が平和であってほしいからこそ
抑止力として同盟国どおしが確固たるタッグを組まなければ
それを達成することはできないという現実主義なのです。


確かにこのような形でしか平和を維持できないとは人類とは空しいものです。
しかし現実に則した最善の手を打たなければそれこそまた世界戦争に突入するかもしれない。

マスコミに惑わされないでほしい。
こんな平和ボケ、日本だけですから。
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成功はいかになされるのか? [固い話題]

物事の上達や成果、成功といったものはどのように達成されるのでしょうか。

「そんなん決まってるんやん。

きちんと計画を立て、一つひとつやるべきことをやったら

徐々に成果が出始め、いずれは成功するよ」

上のような意見は「倫理的には」正しい。

まさに学校の先生の言うことです。

親に文句も言われることもない、真面目さが一番、100%の「正解」です。

しかし「現実的には」正しくないことが多いように思えます。

例えば、楽器を練習したことのある人は同感していただけるのではないかと

思いますが、楽器というのは最初ほとんど弾けない。

全然ダメな状態がしばらく続き、ある日突然出来なかったことが出来るようになることがあります。

これを非線形性といいます。

(これに対し、線形とは一次関数の直線で先ほどの「正解」はこの線形性のことを主張しています。)

成功までの描く軌跡は得てしてこの楽器の例のように非線形なことが多い。

しかし残念なことにこの非線形性というのは我々の脳は理解できるようにできていないのです。

何かを習得しようと計画を立てるにしても、

必ず最初の1ヶ月と次の1ヶ月の伸び幅は同じであることを前提にするはずです(=線形性)。

でも実際は最初の2ヶ月の伸び幅よりも次の3ヶ月目の伸び幅の方が

大きいことが多いので、思った成果を上げられていないと感じ、最初の方で

諦めてしまうことが多いのです。

ですので「諦めなければ夢は叶う」という格言はある意味正しい。

ほとんどの人は線形性を前提にしているため、叶う前に諦めるからです

非線形性が理解できない実験として有名な次の問いを考えてみましょう。

「新聞紙を100回折りたたむと厚さはどのくらいになるでしょう」

少し考えてみてください。





多くの方が数mや数十mと答えたのではないでしょうか。

詳しい計算は省きますが、実は100億光年以上になります。

100億「光年」ですよ。

想像を絶する厚さです。

指数関数的(もちろん非線形関数の一種)に厚さが大きくなるため、

1次関数の増え方とは比べものにならないのです。

まあこれは極端すぎる例でしょうが、

いずれにしても「成功の非線形性」という概念だけでも理解しておくだけで

相当役に立つのではないかと思います。

タグ:成功哲学
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数学は必要か? [固い話題]

私は副業ながら塾で数学を教えていますが

数学という科目は生徒にとってかなり鬼門なようで

わからない子にとってはとことんわからないみたいです。

特に高校生にとっては数学が好きか嫌いかで

進路が分かれてくる程です。

その理由に

暗記することと理解することはちがう、

というのが根本的にわかっていないことが挙げられるのでないかと思います。

おそらく「ゆとり教育」なる時代は暗記ではなく自由な発想を、みたいな

コンセプトに支えられていたのでしょうが、暗記も重要です。

よほどの天才でない限り、インプットなしにアウトプットはできない。

しかし、数学は暗記から始まるのでなく理解から始まります。

理解があれば暗記はほとんどいらない。

しかし、理解を理解たらしめるには訓練が必要です。

パターン化された問題に数多くあたることで

理解が深まり、未知の問題にも突破口が開ける。

こういった成功体験をもたらしうる科目は唯一数学なのです。

なので、文系の諸君もぜひ数学の醍醐味を味わってほしい。

十代で培ったことは一生生きます。

たとえば大人になってまた何か新しいことを勉強しようと思っても

十代で上記したような成功体験の基礎があれば必ず習得できます。

また、これからの世の中は定性でなく定量的な分析ができる人間がますます求められます。

(定性というのは言ってしまえば印象論で、定量というのは数字で判断することです。)

いろんな意味で数学を勉強しないことは非常にもったいないと感じるわけです。
タグ:数学

偶然なのか必然なのか [固い話題]

人はそれぞれ様々な境遇の中に生きています。

では、今の自分を振り返り、その境遇は

偶然なのでしょうか、それとも必然なのでしょうか。

よく考えてみれば全ては必然のように思えます。

あのときこういう選択をしたから今の自分は

こんなに恵まれている、とか、不甲斐ないのだとか

すべては仕立てられたストーリーのようによみがえってきます。

しかし、今思い出したその選択はなぜしたのでしょう?

それってほとんど偶然的にした選択はないでしょうか。

選択の根っこを探っていけば、必ず偶然的要素があるのではないのかと思うわけです。

「いやそうだとしても自分の意思で選択したのだからすべては必然だ」という反論が

ありそうですが、そのときした選択は少なくとも

未来に向かっておこなう不確実なものであったはずです。

ということは別の選択肢をとる可能性も十分にあったわけです。

人はよく後悔します。

後悔という感情はまさに現在になって結果論的に過去との対話をしているに過ぎません。

このように人はいつも不確実な未来を案じながら

自分ではベストと思う選択をしながら生きているにすぎません。

なので私は結果論的にいつももの言う人間が好きになれませんし、

自己責任論というのにも賛同できません。

能力はあるのにたまたま不遇な人もいる一方、

大した能力はないのに運=偶然だけで金持ちな人もいることを考えれば

納得していただけるのではないでしょうか。

しかし、偶然なのか必然なのかを判断するのに明確なものさしがないことが問題です。

それに対して結果論は分かりやすく、結果=実力とするのが

万人に対し納得させるだけの説得性があるのもまた事実だと思います。

結局のところ、人生には偶然の要素がかなり強いのだということを認識することが

エゴを抑え他人への配慮につながるのではないか、と考えるわけです。
タグ:意思決定

人生をより良くする帰納法と演繹法 [固い話題]

われわれ人間はどのようにものを考えるのでしょうか。
よく「筋が通っている」とか「支離滅裂」とか「正論ではある」とか
考え方を評価する言葉があります。
そこでものの考え方という問題に対処するにあたって
大きく分けて二つの方法があります。

帰納法」と「演繹法」です。

帰納・・・具体→抽象の思考。具体的に得られた経験や実験などからある一定の確からしい理論を導く。
演繹・・・抽象→具体の思考。まず理論があり、それを参照点にしながら具体的な問題に対処する。

どちらがいい・悪いはありません。
簡単な例を挙げますと
帰納は「今まで150年以上生きた人間はいない、だから人はみな150歳までに死ぬ。」
演繹は「人類は子孫を残さないといけない。だから自分も結婚しよう。」

この例で具体と抽象の往復を感じてみてください。

ただしこの両者の方法にはどちらも欠陥があります。
帰納の例では155歳まで生きる人はホントに未来永劫生まれないのか、という疑問が生じます。
また、演繹の例では子孫を残さないといけないって誰が決めたんや!という突っ込みが入りそうです。

つまり帰納はいつも統計的な推定でしかなく、
演繹はいつも何かしらのこじつけがあります。

このこじつけのことを数学用語で「公理」と言いますが
演繹の王様とも言える数学ですら証明しきれない前提を必要とするのです。

こうしたことから完璧な考え方などこの世にないことがわかります。

では我々はどうすればいいのか、ですが
これには帰納と演繹を「並行して」使いこなしていくしかないという答えしかないように思います。

人は子供のころから親から「こうしなさい」「ああしなさい」という演繹のシャワーを浴びながら
転べば痛いという経験から帰納的に安全な遊び方を覚えます。

大人だって結局何が真実かなどは分かっていません。
いつも経験から古い理論を更新し、新しい理論を作り、その理論から未来を予測しながら
生活を営んでいます。

ですので、今の自分の思考は常にあらゆる経験から更新されるべきものであるという
ことを知っておけば、謙虚に、また人に優しく生きれるのではないかなと思う次第です。
タグ:統計
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